黒田如水はなぜ兵を挙げたか

黒田官兵衛という人がいました。
戦国時代ですから400年も前の話です。
この人物の話を少ししたいと思います。

私は大学時代西洋史学を専攻していました。
いわゆる「歴史学」です。
史学では歴史趣味とは違い、
いちおうは科学だ、と言われていることもあり
英雄史観は敬遠されます。
ですから歴史上の人物個人を研究することはあまりありません。
私も高校時代から歴史小説や歴史漫画好きなどの
歴史趣味をもっていませんで、
歴史を心理面から研究するつもりでいました。
当時は学術書は一切読んでいませんでしたから
「心理学史観」などと自称していましたが
いわゆる社会史の心性史ですね。
マックス・ウエーバーの心性(マンタリテ)です。

ですから私自身も歴史上の人物に
滅多に心酔することはなかった。
しかし例外的に非常にその人物個人に強く興味を持つことが
なくはありませんでした。

例えば、英国チューダー朝最後の王、
歴代二人目の女王エリザベス1世とか、
ヴィクトリア朝英国で行政革命を起こした
エドウィン・チャドウィックとか、
近代経済学の祖ケインズとか、
日本史では黒田官兵衛なんかですね。

岡山の備前福岡から流れてきた黒田官兵衛の祖父が
現在の姫路市にある御着城に本拠を構えていた小寺氏に仕え、
官兵衛の時代には姫路城を任されるようになっていました。

地元の話です。

だから興味がある、というのがひとつ。
いまひとつは側室を持たなかった武士であり
クリスチャンでもあり
「戦国時代最強のナンバー2」と呼ばれるほど
先見力に優れ策略に長じ
秀吉に怖れられるほどの知略の才を持ちながら
欲がなかった。
立身出世のチャンスを悉く断り、
早々に息子の黒田長政に家督を譲り
如水軒と号して隠居してしまった。
その生き方に魅力を感じた、
ということ。

詳しくは司馬遼太郎さんの
『播磨灘物語』(講談社文庫)を読んでいただくとして
そのなかのひとつの逸話について少しお話します。
『播磨灘物語』第4巻に書いてある話です。


司馬遼太郎『播磨灘物語』第4巻(講談社文庫)


1600年、関が原の戦いの頃、
黒田官兵衛は、豊前中津にいました。
すでに家督を息子の長政に譲って隠居の身です。
それでも世の動向に無関心ではなく
あちこちに間者を配して
密かに情報を得ていた。
いよいよ徳川家康が束ねる東軍と石田光成の西軍が戦をする
ということを知り、
彼は九州豊前で唐突に兵を挙げた。
関が原に出向いていて九州の大名たちは
ほとんど留守のような状態。
それに乗じて北九州から姫路までの西日本を切り取ろうとした。

ほとんど魔術のような素早さで
北九州を席捲したとされます。

その時、官兵衛は息子の長政を捨て殺しにしてでも
九州から中国へと張りだしてゆくつもりだったらしい。

長期戦になるという官兵衛の予想に反して関が原の戦いは
あっという間に東軍の勝ちで終わった。
知った黒田官兵衛はすぐ兵を解散させ、
領地を家康に差し出して再び隠居してしまった。

いったいこの男は、
何をしようとしていたのか、
どういうつもりだったのか。

この疑問に多くの歴史作家や
歴史ファンたちはこのように言います。

「天下盗りの野心が再燃したのだろう」

「黒田官兵衛には野心も才もあったが運がなかった」

ほんとうにそうでしょうか?

私は違うと思うのです。
黒田官兵衛には天下を盗るという野心や私利私欲など
微塵もなかったはずである。
最初から最後まで欲などもっていなかったから
先を読むことが可能だった。

ならば関が原の時、挙兵したのは何のためだったのか。

話は遡ります。

秀吉が信長に中国攻めを命ぜられ、
姫路までやってきたとき、
黒田官兵衛は、
姫路城の戦略上の利点を説き、
ここを拠点にするよう秀吉に進言します。
進言したどころではない。
姫路城を明け渡してしまった。

官兵衛とその郎党は父職隆が隠居している
国府山城へ移った。

国府山城は、
功山(こうやま)城とか妻鹿城とか呼ばれる
播州平野一の川、市川の下流東岸に位置する
山の上にある城です。

画像

(国府山)

山上からは播磨灘が一望できます。
今は海岸が埋め立てられ工業団地になっていますから
海は遠くにあるように感じられますが
当時はもっと海は近かった。

国府山城は
官兵衛の父職隆の没後には廃城になったとされ
いまでは山上に城があったらしい微かな痕跡と
麓に案内板があるばかりです。

画像

(国府山城・功山城・妻鹿城案内板)

国府山城下は今の飾磨区妻鹿で
妻鹿町内に黒田職隆の廟所があり
筑前さんと呼ばれているらしいが、
妻鹿出身のわが母には
そのようなものがあった記憶がないらしく
後世に作られた廟所なのかもしれません。

関が原の戦い当時の疑問の話から
なぜ国府山城の話になったかというと、
数年前、国府山に
実際に登ってみたことがあるのです。

国府山の山頂から南の眼下に広がる瀬戸内の海には
男鹿や家島群島がくっきりと
四国の讃岐連山がうっすらと見えました。
それで「ああ、なるほどそうだったのか」と思ったのです。

関が原の戦いの時、
兵を挙げた黒田官兵衛の真意が
そのときはっきりと解った。

関が原の戦いの年は1600年。
黒田官兵衛54歳。

播州姫路で生まれ育った黒田官兵衛は
54歳になって九州・大分豊前中津城に居る。
姫路はすでに自分の領地ではなく
自由に行き来することすらできない。

54歳の人間の「自然」とは
どういうものでしょう?
故郷から遠く離れた異国の地に暮らす54歳の胸には
どのような望みが去来するでしょう?

やはり故郷に帰りたい
と思うのではないでしょうか。

関が原の戦いに乗じて兵を挙げて
東進しようとした官兵衛には
天下を盗る野心なんか微塵もなかった。
ただ姫路に帰りたかったから
故郷に帰って、
もういちど故郷の海を見たかったから。
だだそれだけ。

関が原が終わり、
その抜群の軍功により息子黒田長政は
筑前福岡52万3千石を与えられ、
それに伴って官兵衛も福岡城に移り住んだ。
そこから眺める博多湾の景色を見て、
しきりに
「故郷に似ている」
と言っていたらしい。

海が見える故郷とはどこでしょう。

姫路城は当時は
今のような五層の立派な天守閣ではありません。
今の城は後の池田輝政の時代に作られたものです。
官兵衛の頃はもっと低かった。
そこからは海はみえなかったでしょうたぶん。

故郷の海とは、
父職隆に隠居城として与えていた
国府山城から見える瀬戸内の海に違いない。
ここに帰ってきたかったのではないか。

荒れ放題の今の国府山に
雑草や熊笹を掻き分け
蜘蛛の巣を払いながら
汗を拭き拭き登頂して
そこから海を眺めてみて、
ようやく知ることができた。

故郷に帰りたい。
愛しいあの頃に帰りたい。
愛しいあなたのもとへ帰りたい。

望みはただそれだけ。

国府山城の傍らには市川が流れています。
黒田官兵衛。
入道如水。
水のごとし。

すべてはここに集約されているに違いありません。

ここから始まり
ここで終わりたかった。

人の「自然」とはそういうものだと思います。

苦労して登ってみてよかった。

(渡野川)


司馬遼太郎『播磨灘物語』第1巻(講談社文庫)
司馬遼太郎『播磨灘物語』第2巻(講談社文庫)
司馬遼太郎『播磨灘物語』第3巻(講談社文庫)

この記事へのコメント

娑潼 (しゃどう)
2008年05月17日 01:46
黒田如水にお詳しいようですね(*^_^*)
実は黒田如水について調べています。
もし出来ましたら、いろいろと教えていただけないでしょうか?
2008年05月17日 03:38
>娑潼 (しゃどう)さん
こんにちは。古い記事なんで書いた本人が内容忘れかけてます。詳しいというほどではないです。地元にいるから、その範囲内での情報はあるかもしれませんが、間違って記憶してるところもあるかもしれません。私の分かる範囲内でしたらなんなりとご質問いただければお答えしますよ。

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    Excerpt: エピソードで読む黒田官兵衛 (PHP文庫) 姫路生まれの黒田官兵衛(孝高、如水とも)は、豊臣秀吉の名参謀として天下統一に貢献。あまりの知恵の鋭さに秀吉が警戒したと言うほど Weblog: ひめナビブログ racked: 2006-05-20 12:05