ナンシー・チョドロウと吉本隆明

再びコメントへのレスポンスが長くなったので
エントリー立ててお返事します。
個人的なお返事ですが、
他の方で内容を理解してみたいと思う方は
ここの、

「ヒダリの知的腐敗」
http://44840889.at.webry.info/200702/article_7.html

コメントの続きとしてお読みください。

>みかんさん

いろいろコメント書いていただき
ありがたく存じます。
テーマの分類ですが、
いちおう「思潮」というのにしようかと思います。
学術的な話の分類テーマが
これまでなかったので、
新しく設けました。
テーマ一覧から探すのは
数が少なく下のほうになりますので
そのテーマの以前の記事を
表示できるようにしておきます。

コメントの字数が500と厳しいですが
これを変更することができないので、
いくつにも分けて書かないといけないようになっていて
ご迷惑おかけしています。

ナンシー・チョドロウの話ですが
追解説いただいて
少し議論のパラダイムが
うっすらと見えてきた気がします。

>「女が母親になる」「母親になるのは女だ」
ということ(ディスクール)は、
決して自明のことではなく、社会によって作られたものだ

ここには複数の文脈が錯綜していますので、
少し整理させていただいていいですか?

まず、「女が母親になるのは決して自明ではない」
という話はこう書き換えてみますね。

「母性は本能ではない」

これをチョドロウが言ったとしたら
まずもって事実認識が「正しい」です。
母性は本能ではありません。
後天的な条件があって生成してくるものです。

本能というものは退化するものではありませんで
筑紫哲也が言うような、
「現代女性の母性本能が退化した」
というような物言いは
それ自体が間違いです。

ここからが実は、
人間の生態(ほとんどの哺乳類、鳥類も同じです)が
正しく理解されていないところで、
「社会によって作られる」というところにも
正しい理解と間違った理解が同居している状態だと思います。

例えば、こういう言い方があります。

「母性は本能ではない。
学習して作られてくるものだ。だから……」

これはフェミニズム理論に流れてゆく文脈です。
チョドロウはナンシーというから女性ですね?
もしかするとこっち側の論者かもしれませんね。
それなら非常に標準的な
フェミニズム思想家ということになります。

もしもそうではない文脈で
これをこの女性が言ったとしたら
ただものではない。
学ぶべき優れた研究者ということになる。

母性学習生成説、とでもいいますか、
これを主張するのが
ぼんくらなフェミニズムです。
人間は白紙の状態で生まれてくる
という誤謬を前提としてますので、
母性は本能ではない、というところに遡及して、
事実認識を誤っている、ということになります。

本能か学習か、その中庸か。

という古典的二分法図式が、
この国にはずっと存在しますが
この図式に当てはめると、思考停止に陥って、
あらゆる事柄が正しく理解できなくなる。

このあたりのことは、
TBSが「ミラーニューロンは世紀の大発見であり、
それを活性化することが幼児虐待の予防になる

というウソ八百を吹聴したことに対する反論として、
荒い筆致で論じたことがあります。

母性とは
http://44840889.at.webry.info/200605/article_6.html

女性は母親になるための「元型」(*注1)を
誰でも生得的に持って生まれてきている。
しかし「母性の元型」が活性化して
「母性」を形作るようになるためには
後天的な要因が正常に作用する必要がある。
その後天的な要因は、
決して「学習」ではない。

これが母性に関するいわば
正しい理解の仕方です。

日本の伝統的な思考停止の二分法図式を使っていうなら
こうなります。

母性は、本能でもなくば、
学習によって作られるものでもない


この見解を
「女性であるナンシー・チョドロウ」
が言っていたとしたら
その研究は隅から隅まで
綿密に学んでみるだけの価値のある
非常に優れた研究だ
ということになりますね。

平凡なフェミニズム研究者か
非凡な研究者か。

どっちなのか分かりませんが、
少なくとも、母親になるということを
「男から強いられた」などと言わないで、
母娘間で継承され、再生産される
と事実をそのまま理解できているところは
健全な知性だろうと思います。

吉本隆明に関してですが
そのまえに、

外国に行ったこともないのに世界を知っている。
井の中の蛙に徹することで普遍性にいたる


という話のほうです。
吉本隆明がこれに該当するかどうかは
私には分かりませんが、
こういうことは、知られていないだけで
現象として多くはないかもしれないが
ありうることだろうと思います。

英国史を、イギリスに行ったこともない人間が論じると、
それだけで信用できないとする没経験主義者がいます。
逆にイギリス留学した経験をもとに
一段上に上ってイギリスを知った気になってもの言う人もいます。
程度の低い知性は、
イギリス人と交わるときも、
程度の低いガイジンとしか仲良くなれないものですから
そんな「経験」など何の自慢にもならないのですが、
バイリンガルになって
ガイジンの知人がいっぱいできたら国際人とか
視野が広くなったとか、
偉くなったと勘違いする人が日本では後を絶ちませんね。

私たちが知らないだけで、例えば、
日本に一度も来たこともないスコットランドの片田舎に
日本という国家地域の本質を
日本人一般よりしっかり理解している人が
いたりするかもしれません。
そのような可能性は
十分あると認識しています。

そのようなことが実際にある、
ということを現実に知る機会を得ることもたまにある。

その一例が、
ルース・ベネディクトの『菊と刀』でしょうね。
『菊と刀』は、
「なぜ日本にきたこともないアメリカ人が
そこまで日本人の心性を理解しているのか」

と当時日本人をずいぶん驚かせたらしいが、
彼女は日本の占領政策をスムーズに行うために
アメリカ政府から依頼されてこれを書いたそうで、
敵国ですから当然日本に来たことすらない。
映画や文学作品やハワイの日系人との対話から
すべてを読み取ったわけです。

当時のアメリカがどれだけ強かったか、
現実を否応なく認めざるをえない事実でもあります。
そこまで調べ尽くしてくれるような国と戦争して
勝てるわけがない、
と私だったらそれを知った時点で
即刻白旗あげますね。

吉本隆明に関して、信奉者が多いことぐらいは知っていますし、
1985年当時の、現代用語の基礎知識の項目に
名前がでているほどだったことは知っていますが
全く興味が湧かなかったので
読むことすらしていないです。
これも、何がどうすばらしかったのか
誰かに教えを乞わないといけないでしょう。

マルクス主義を批判している人、
程度の認識しかありません。

マルクス主義の、
いわゆるマルクス・レーニン主義的な
単線的発展段階論に対するアンチテーゼに
「アジア」とか別の地域の単系発展形態を持ち出すのは
本手、のようなものでしょう。

吉本隆明も「アジア的発展」だとか
「アフリカ的発展」(アフリカ的段階?)なんか
持ち出していたような気がします。
梅棹忠夫も「文明の生態史観」かどこかで
欧米とは別の、文明の発達方法を書いてましたが、
多くの場合、
多線的発展段階論」や、
単なる「類型論」に陥ってあまりうまくいきません。

そのようなマルクス主義批判は、
いわゆる「構造主義」以前のものでしょうね。

私が大学にいた頃には、
アジアや第三世界を持ち出して論じる場合、
「横の関係構造」を強調するやり方が
案外アンチテーゼとして強かった。

低開発国は、決して未開発国だったことはない。
低開発の開発を、先進国に強いられている


とは「新従属理論」と呼ばれる切り口です。
アンドレ・ガンダー・フランクサミール・アミン
なんかですね。

ここから世界を単一の構造持ったシステムとして
解明してゆこうとする
世界システム論」がでてきます。
I・ウォーラーステイン(ウォーラースタインともいう)の
近代世界システム論」とか
ジョージ・モデルスキーの世界システム論です。

これを勉強していたのが
20年ほどまえになりまして
私はここからかなり違う道に進んでいる気がします。

第三世界を被害者=疎外された者、
とする見解に
疑問を持つようになったからです。

不良外国人が来日して、
凶悪犯罪を犯すことが多発してますが
これをマルクス主義者は
納得できるように説明できません。
マルクス主義流に言えば、
彼ら第三世界から来た凶悪犯罪人も
「疎外」された「被害者」になってしまいます。
ではそれに殺された日本人は、
いったい何なのでしょうか?

そこから「疎外」という現象を、
解明しなおさないといけなくなっている。

そのような問題意識を持つ私にとって、
吉本隆明の言うことは、
時代錯誤な、古臭い話にしか聞こえない。
三位一体モデル」などという
絵空事しかいえない中沢新一のようなポストモダニストは
なおさら食えたものではない。
平和ボケ、としか言いようがないですね。

最後に、

「少数者だからと舐めてはいけない!」

まさしくその通りです。
私は「多数派」というものは
それだけで疑いますよ。

それが懐疑主義者なら
懐疑主義者こそ「正常」で
「健康」な知性です。

追伸。

読み返してみて、
ずいぶん吉本隆明氏のことを悪く書いているような気がしたので
みかんさんがお気を悪くなさったらいけないので
少し追記です。
この印象はたぶんに「ほぼ日刊イトイ新聞」への印象の悪さが
そのまま投影していると思います。
人間は一夫一妻がよい、
とする吉本氏の見解には全く同感で、
そういうことをはっきり口にする文化人は
いまどきまずいないので、
そこはやはり非凡なところなのだろうと思います。
主要な著作を全く読んでいないので、
まさしく教えを乞う、
という状態なので、
もし吉本隆明氏の優れていると思われる特筆すべき点に
お気づきでしたらまたお教えくださればありがたく思います。

中沢新一に関しては
どうでもいいですが。

(渡野川)

(*注1)
「元型について」
http://44840889.at.webry.info/200605/article_5.html

この記事へのコメント

みかん
2007年09月30日 23:03
渡野川さん、非常にご無沙汰しています。体調を崩していた等々、色々あってコメントできずにいました。ご寛恕下さい。「思潮」という分類テーマまで設定して頂いたのに、申し訳ありません。追伸を読みました。私は吉本主義者(エピゴーネン)ではないので、別に気にしていません。却って気を遣わせてしまったようで、心苦しく思っています。その他の内容についてのコメントは、また日を改めさせて頂きます。まずはご挨拶まで。
2007年10月03日 18:07
おひさしぶりです。私もテーマ分類作った後記事なにも書いてませんでご容赦ください。コメントやレスポンスを強要するものではないので、いつでもかまいません。拙文お読みいただき感謝です。
みかん
2007年10月08日 23:26
吉本は、「家庭は(家族)愛の場である」というようなことを言っています。これに対して、「現在に於いては家庭は愛の場所になっていない」という反論は想定できます。でもそう言うと、「それは<大衆の現像>を理解し得ない、アカデミズムに毒された、知識人の戯言に過ぎない」と吉本はイデオロギー的に排除するでしょう。思想家としての吉本の言説は理解できなくもありません。でも、家庭を愛の場とするのには、違和感を禁じえません。
みかん
2007年10月08日 23:41
この間ほとんど勉強していません。ただ一つ断片的に掴んだのは、セックスのジェンダー化ということです。ジェンダー同様セックスも、自然なものではなく、文化的社会的に規定されたものである、と言うことです。これには驚きました。もっとも「自然」という概念ほど人工的なものはないのでしょうが……。私たちは生まれるとき、女または男として生まれます。でも性同一性障害や両性具有体を考えてみれば、これは決して自然なものではありません。女か男を選ばざるを得ないのです。偶然(自然)ではなく、選択の問題です。となると、人間・人類にとって自然なものとはあり得るのか?そうだとすれば、それは何か?という疑問が残りますが、今のところ答えは見出していません。
みかん
2008年06月09日 01:41
またまた非常にご無沙汰いたしております。タイトルとは全くずれますが、最近は認知行動療法について勉強しています。「行動とやる気のどっちが先か?」と問われて、うつ病やうつ状態の人はやる気と答えるそうです。でも、行動が先で、行動によってやる気が生まれる。というのがこの療法の答え。極論すれば内面(感情)をないものとする、感情は思考によって変わるものとする。そういう前提の療法ですから、答えも自ずから決まってきますね。やる気と行動、感情と思考は相互作用がありますから、一概にこの療法が間違いだとは言えませんが・・・。今のところこれぐらいです。もしかしたら渡野川さんには言わずもがなのことかも知れませんが。失礼ですが、最近は何を勉強されていらっしゃりますか?
2008年06月09日 03:35
>みかんさん
お久しぶりです。認知行動療法は少ししか知りませんが、多少の興味はあります。実用的で、実際にそれによって恩恵を得た人がいる以上、この方法も否定できませんね。心身相関不可分一体のものと認識するのが自然で、もともと心と体の二つに分けてしまうのがおかしい。ユングを紹介した河合隼雄さんの「宗教と科学の接点」はそういう話が中心です。
認知行動療法というのに最初違和感があって、行動科学系心理学の亜流かなと疑ってしまして、それなら単なるマインドコントロールにすぎませんので問題なんですが、そういうものでもないのかもしれません。何をもって治癒とするかによって違ってくると思うのですけど、とりあえず自殺とかそういうものを回避できるのなら使ってみたほうがいいかもですね。
2008年06月09日 03:55
以前のコメントにレスポンスしないですみません。
最近は本もあまり読んでないです。学習意欲の低下も更年期の症状のひとつかな?
「自然」という言葉を否定的に言う人が増えてますね。自然状態とは何かを知ろうとすることの放棄は、「正しいものなどこの世にないんだ」と教える教師と本質的に同じだと思います。養老猛司の「バカの壁」はこれだけしか言ってなかったような。
2008年06月09日 09:48
正しくもないことを唯一の真理と思い込むのがよくないだけで、その思い込みをちゃんと否定できない人間が根本を否定してしまって「唯一絶対の真理はない」という人は問題です。単なる怠慢であって、話のすり替えですね。陰謀論に傾倒する反戦平和主義者が、「国家に復讐をさせるな。そんなに復讐したければ自分で殺せ」とか平気で書いている。こんなものはヤ●ザのお礼参りの論理で、それでどれだけ他人が迷惑するか。「正しいものなどこの世にない」という知性の怠慢からはこんな本末転倒のボケた平和主義者が育つわけです。その怠慢のぬるま湯のなかでファシズムの芽やテロリズムの芽が育つんだと思いますが。「自然=正しさ=民主主義の原理=平和」で、すべて同じひとつの富士山の違う角度からの眺めだと思うんですけどね。

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